ペテロ第一2章

2:1 ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、

2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。

 私たちが新しく生まれたのは、神の言葉によります。それで、御言葉の乳を直ちに慕い求めるように命じました。それは、御言葉によって救いに関して成長するためです。より多くの報いを獲得するために、成長するためです。悪いものを全て捨てるのです。

 なお、この救いは、永遠の滅びから救われることを意味していません。信者が永遠の資産を受け継ぐことを表しています。

ペテロ第一

1:4 また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。

1:5 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。

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2:3 あなたがたは、主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わいました。

2:4 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石です。

2:5 あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。

→「もし、あなた方が、人には捨てられたが神に選ばれた尊い生ける石である主に来て、主が慈しみ深いことを味わったならば、あなた方自身もまた、生ける石として、霊の家に築き上げられ、イエス・キリストを通して神に受け入れられるいけにえを捧げる聖なる祭司となります。」

 石は、教えの比喩です。生ける石は、教えを具現化することで、教えのうちを生きることを表しています。主は、神の言葉すなわち教えを受け入れ、実行して模範を示し、教えられた方です。そのような方に愛されたのです。慈しみを味わいました。それで、同じように変えられるのです。生ける石として歩むようになるのです。教えをそのままに実行する人として歩むようになるのです。それが生ける石です。そうして初めて、神に受け入れられる霊のいけにえを捧げることができます。それは、よい行いを捧げることができることです。ただし、その行いは、祭壇に捧げられるいけにえがイエス様の比喩になっているように、イエス様がその人の内でなされた業を捧げることになるのです。その人の肉の行いが受け入れられることは一切ありません。父である神様は、御子の栄光としてそれを喜んで受け入れられるのです。そのようにその人の信仰に応えてキリストの業がなされるのですが、神様は、その業に報いて、御国で称賛と光栄と栄誉を与えます。

2:6 聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、尊い要石を据える。この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」

 それは、聖書に次のように書かれているからです。選ばれた石、尊い要石とは、イエス・キリストのことです。それは、預言されていたことでした。この方に信頼する者は、失望させられることがありません。この信頼は、私たちが生ける石として霊の家に築き上げられることに対するものです。すなわち、教えを体現して成長することを表しています。私たちが神の御心を行い神に喜ばれるいけにえを捧げることができるのは、キリストによるからです。そのことに対する信仰なのです。その信仰に応えて、それを実現してくださるので、失望させられることがないのです。

2:7 したがってこの石は、信じているあなたがたには尊いものですが、信じていない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった」のであり、

2:8 それは「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからであり、また、そうなるように定められていたのです。

→「彼らは、従っていない御言葉につまずきます。また、そうなるように、定められていたのです。」

 この石は、信じる者にとっては、尊いのです。しかし、信じない者にとっては、躓きの石です。生ける石は、御言葉に従う人々のことです。躓くのは、御言葉に躓くことです。生ける石が意味していることは、御言葉に従い御心を行うことであることがわかります。

 信じている者にとっては、要石は、尊いのです。完全な模範者であり、その人のうちにあって働き、御心を行う方です。すなわち、信じた者が御心を行うのは、その人のうちにあって働かれる主イエス様の働きです。そのように、信仰に応えて働く方であるので尊いのです。

 信じていない人にとっては、それは、躓きの石、妨げの岩です。彼らは、従っていない御言葉に躓きますし、そうなるように定められていました。

 躓きは、御言葉に躓いたのです。「彼らは従っていない御言葉に躓いたのです。」彼らは、神様を恐れ敬うことをしていませんでした。ですから、偽善が横行していたのです。神が遣わされたキリストがダビデの子孫として来られたことを受け入れることができなかったのです。

 また、従っていない御言葉に躓くことは、神の定めでもあるのです。

2:9 しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。

 躓く人と対比されて、手紙を受けた人々が受けている祝福を列挙しました。選ばれた種族です。イスラエルは、自らを選ばれた種族と考えていましたが、御言葉に従いませんでした。

 王である祭司です。これは、キリストと同じです。

 聖なる国民で、神の所有とされた人々です。

 その目的は、召された方の栄誉を告げ知らせるようになるためです。その方は、その人々を闇の中からご自分の驚くべき光の中に召してくださったからです。「告げ知らせる」は、アオリスト接続法で、別の述べられた動作の結果として起こる明確な結果を表しています。

2:10 あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。

 その、闇の中から光の中に召された人々は、以前は、神の民ではありませんでしたが、今は神の民です。以前は、契約による祝福を受けていませんでした。しかし、今は、契約による祝福に与っています。信仰に応えて、神が契約を徹底的に果たされ祝福を受けでいるのです。

 この節は、前節と人を表す関係代名詞で繋がれていて、その関係代名詞は、主格です。前節の説明になっています。

・「あわれみを受ける」→神の契約に対する忠誠(の恵み)を受ける。

2:11 愛する者たち、私は勧めます。あなたがたは旅人、寄留者なのですから、たましいに戦いを挑む肉の欲を避けなさい。

 愛する者たちに勧めをしました。あなた方は、一時的に滞在する、また、居住する異邦人であり、この世を住処とするものではないことを指摘し、たましいに戦いを挑む肉の欲を避けなさいと。肉の欲は、この世のものです。それは、たましいが神の言葉に従って歩むことを妨げるのです。

・「旅人」→一時的に滞在する外国人。

・「寄留者」→一時的に居住する外国人。

2:12 異邦人の中にあって立派にふるまいなさい。そうすれば、彼らがあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いを目にして、神の訪れの日に神をあがめるようになります。

 立派なと訳されている語は、神の目に適った良いことを受け入れるように他者を動機付けることで、異邦人の中にあってそのような振る舞いを保つように勧めました。この異邦人は、信仰のない人たちのことです。

 そうすれば、その振る舞いの中で、彼らは、あなた方を悪人呼ばわりしますが、その良い実践を見て、神の訪れの日に必ず神を崇めます。

・「立派な」→魅力的な良いもの。愛すべきもの(美しいもの、称賛に値するもの)を受け入れるように他者を鼓舞する(動機付ける)。二回。

2:13 人が立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、

2:14 あるいは、悪を行う者を罰して善を行う者をほめるために、王から遣わされた総督であっても、従いなさい。

 人が立てたすべての制度に主のゆえに直ちに従いなさい。それが卓越した王であっても、王から使わされた総督のような高官であっても従うのです。最高位の王と高官が対比されています。どのような身分の者に対しても従うように命じられています。その高官は、悪を行う者を罰し、善を行う者を褒めるため王から遣わされています。彼は王の権威をもってそれをしているのです。

2:15 (なぜならば)善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることは、神のみこころだからです。

 その理由を示し、善を行っていて、愚かな者たちの無知を沈黙させることは、神の御心です。これは、発言を封じるだけではありません。彼らは、統治のための行動するのです。それは、信仰に対して無知から出てくる行動である場合があるのです。そのようなことも沈黙させるのです。行いを封じるのです。

2:16 自由な者として、しかもその自由を悪の言い訳にせず、神のしもべとして従いなさい。

 自由な者として、その自由を悪の覆いすなわち口実にせず、神のしもべとして従うのです。

2:17 すべての人を敬い、兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を敬いなさい。

 この一連の命令は、アオリスト命令形です。相手にある決定的な決断を促す意味を込めた命令です。しても、しなくてもよいというものではなく、直ちに従うべき命令です。

2:18 しもべたちよ、敬意を込めて主人に従いなさい。善良で優しい主人だけでなく、意地悪な主人にも従いなさい。

 この文は、命令形で記されていません。しもべたちよ。あなた方は、主人にあらゆる恐れをもって、善良で優しい主人だけでなく、曲がった主人にもしたがっています。彼らは、すでに従っているのです。

・「敬意を込めて」→十七節の神を「恐れ」の名詞形。恐れ。

2:19 (なぜならば)もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです。

 その理由が示されていて、不当な苦しみを受けていて、自分の持つ神の教えのゆえに、悲しみに耐えるならば、それは、恵みです。主の好意により備えられた祝福で信仰により受け取ることができます。この祝福は、次節では、「誉れ」につながることであることがわかります。神様から称賛と光栄と栄誉を受けるのです。

・「良心」→その人の持つ教え。判断や行動の基準となる。信者の場合、神の教えに整合していることが幸い。

・「神のみ前における良心」→神の教え(に整合したその人の持つ教え)。直訳では「神の良心」。

・「神に喜ばれること」→恵み。

2:20 (なぜならば)罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。

 罪を犯していて、打ちたたかれていて、それを必ず耐え忍んでも、何の誉になるでしょう。それは、当然受けるべき苦しみです。しかし、もし、善を行っていて、苦しみを受けいて、それを必ず耐え忍ぶならば、それは、神の御前に恵みです。人にとっては、苦しみですが、神の観点から見れば、恵なのです。

・「誉」→誉、栄光。

・「神に喜ばれること」→恵み。

2:21 (なぜならば)このためにこそ、あなたがたは召されました。(それで)キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。

 その理由は、このために私たちが召されたからです。神様の恵みとして用意されているのです。苦しみを耐え忍ぶことで、私たちは誉を受けるのです。苦しみや悲しみを避けることを、求めたり、期待するのではなく、神様の恵みであることを明確に覚えることは幸いです。

 それで、イエス様は、模範を残されました。私たちのために苦しみを受け、その足跡に従うように模範を残されました。

ヘブル

2:9 ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。

 その方は、わずかの間、御使いよりも低くなられ、人として歩まれました。イエス様は、死の苦しみを受けられましたので、栄光と誉の冠を受けられました。

ピリピ

2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、

2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、

2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。

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 キリストが父の右の座にあげられ栄光と誉の冠を受けられたのは、十字架の死にまでも従われたからです。ヘブル人も苦しみの中にありました。しかし、自分を捨てて、神の御心を行うならば、栄光と誉を受けるのです。イエス様は、その完全な模範を示されました。

 その死は、神の恵みによって味わわれたものです。恵みは、神がイエス様に好意によって備えた祝福です。イエス様が栄光と誉の冠を受けられたことを指しています。そのために死を味わわれたのです。ヘブル人にも神の恵みとして苦しみが与えられていることを覚えさせました。それは、大いなる栄光につながることです。

 そして、その死は、すべての人のために味わわれたのです。利己的な動機ではなく、愛による業であったのです。ヘブル人を祝福に与らせるために味わってくださったのです。

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 これがイエス様の模範です。苦しみを受けても、それは、神の恵みとして受けられたのです。ですから、イエス様が苦しみを避けようとしたことはないのです。そうでなければ、模範とは言えないのです。

2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。

 キリストは、罪を犯したことがなく、その口には欺きもありませんでした。

2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。

 罵られても、ずっと罵り返さずにいました。苦しめられていても、ずっと脅すことをしませんでした。正しく裁かれる方にお任せになりました。

2:24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。

 キリストは、木の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義に生きるためです。義を行って生きるためです。キリストの打ち傷によって癒されました。癒されたことはアオリストで、癒されたことすなわち完全な者とされていることを表しています。

2:25 あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。

 私たちは、羊のようにさまよっていました。しかし、今は、たましいは牧者また監督者である方の元に帰ったのです。その方の導きに従い、模範に倣って従っていく者とされています。